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Apr 11

耳。



 そのようにして人称が溶けて、あるいは彼女と少年が人称から溶け出し、行為が少年と彼女の体を借りて踊っていた。
 もう一方で主観を持たない身体感覚がそれ自身の意味と世界の膜を試していた。
 誰もいない部屋に口づけがひとつ浮かんでいた。


★ 


 「彼女」が消えていた。
 別れのキスをしている最中に「彼女」は消えた。
 それは彼女から「彼女」への贈り物だった。



 彼女が少年に教えたかったのは、彼女がそういう人間だということだった。
 けれども少年がそのことに気付くかどうかは賭けだった。
 つまりは彼女はそういう人間だということだった。



 そのような血なまぐさい話ばかりではなく、胸が温まるような話もある。
 たとえば彼女の居間に浮かんでいた一つの口づけは、しばらくそのままそこに残ったこと。
 その口づけがほどけて、二つの唇が残ったこと。



 二つの人の形がいったん目を覚まして、それから体格のいい方が細い方を抱き締め直したこと。
 細い方はマグカップに指を伸ばそうとしていたが、その動作をキャンセルしなければならなかったこと。
 細い方はクッションに座り、体格のいい方は床に座っていたこと。



 どこか遠くの場所の静けさが聞こえそうだったこと。
 様々な音のぎりぎりの隙間を幾度もくぐり抜け、それは今にも少年か彼女の耳に届きそうだったこと。
 それは届くことによりそれ自身を掻き消すような静寂ではないことを少年が願い、一方彼女はそれは届くことによりそれ自身を掻き消した静寂ではないかと思っていたこと。



 「彼女」がいなくなったことの違和感を少年が感じていたこと。
 懐かしさに対する懐かしさが「彼女」の不在に紐付けられていたこと。
 彼女が懐かしさを諦めていたことなど。



 黄昏が降り、部屋は暗かった。彼女の服の色を、その温度で感じられそうだと少年は思った。
 だから少年は部屋が暗くなったことに気付いていなかった。それともまだ何にも気付いていなかった。
 それでも彼女が喉を渇かせていることには何故か少年は気付いた。



 はじめは口移しで飲まそうかと少年は考えた。
 少年は抱擁を緩め、左手でマグカップを彼女の右の手許まで寄せた。
 彼女の右手がマグカップの側面をつまんだ。少年にはそれが分かった。



 彼女は冷めたカモミールティーを口に含むと、マグカップを置いてそのまま頭を少年の左肩にもたせかけた。
 それが彼女が発した沈黙以外の初めの合図だった。
 それを少年が受け取ることができたかどうかは分からない。どちらにせよ少年は知っていた。



 少年が彼女の頭を支えながら体重移動をするように少し左肩を引くと、彼女の左耳が少年の口許まで来た。
 少年がその耳に唇で触れるか、言葉で触れるかする寸前の瞬間があった。
 そこで彼女の髪の毛の一本がぷつんと弾けた。

 
 (了)

nobodyhurts - 20110411 - silence (almost unreal)

「耳」


Apr 10

舌。



 そこには少年は存在せず、少年が彼女を抱きしめているという事実だけがあった。もしくは彼女がそこにいるという事実があった。少年は自分がそこにいるという事実をかたくなに認めなかった。もしくは少年は自分がそこにいるという事実を否定しながらも、四月の彼女の住居の居間で自分が彼女を抱擁しているという事実は認め、いわばその事実だけを誰かが愛した。
 彼女は痩せていたが、抱きしめてみるまでは少年がその肩の広さを測ることはできなかった。肩の広がり、項や背中へと流れていく数種類の曲線、あるいは結い上げた髪の毛から垂れている彼女の肩の破片、肌色の広がりと、肌色と衣服の境界、彼女自身の体のニュアンスを拾いあげる彼女の体の動き、自分の胴体と少年の左腕に挟まれた右腕を自由しようと彼女が軽く体をよじらせた。自由になった右腕を彼女は少年の背中に回した。
 あるいはそこには彼女も存在せず、「彼女」が誰かに抱擁され、「彼女」が誰かを抱擁しているという事実だけがそこにあるのかもしれなかった。



 先に唇を重ねようとしたのはどちらだったか。少年の影のかたちをしたものが先に動いていた。少年にとっては感触の映画が続いていた。皮膚を流れていく通常では考えられないほど沢山の情報と、それによる高揚を少年は眺めた。それは静寂や沈黙と等価でなければならない、と少年は思う。しかし。
 どちらの舌がどちらの舌に先に触れたのかも分からなかった。沈黙で喋るために舌を絡ませた。没頭された行為だけが存在した。だからそれは眠りのような口づけだった。あるいはそれは眠りのようだった。あるいはそれは口づけのようであり、少年と彼女の形のようでもあった。
 少年の形をした少年が、彼女の形をした彼女の沈黙を確かめていた。その事実だけが、少年と彼女をそこに存在させていた。



 境界線しかそこに存在しなくなった。世界は濡れた膜になった。温度が動き、時間が意識を持った。どこかに心拍数が二斤存在した。舌が二人の人間に対して二枚あった。それらは完全に絡むということもなければ、完全に逸れるということもなく、時折いたずらに規則性が乱されては、展開が即興で発見された。その結果だけが存在し続け、それ以外のものは消えた。
 いやまだだ。と彼女は思う。
 まだ誰もいなくなったわけではない。「彼女」が残っている。そしてこの抱擁と口づけが「彼女」に対する装飾としてのみ作用し始めている。きっとこれが少年が見たいと思っていたものだろう。でもこれで終わりじゃない。まだ続きがある。彼女は行為に没頭したまま、「彼女」が逆編集の手法で現在を懐かしむように仕向けた。つまり、彼女はそこからいなくなった振りをしている人間の振りを始めた。そこからいなくなった振りをした「彼女」は自身の経験を追いかけようとして彼女の動きを見ていた。自分を覆っていた両面鏡張りの装甲が透明になったのを彼女は感じた。あるいは、最も恐ろしいのは、透明になっても結局鏡は鏡であるかもしれないということだった。

nobodyhurts - 20110410 - silence (factual)

「舌」


Apr 9

背。



 彼女は少年の肘に触れていた。少年は彼女の腰に触れていた。自然と、少年と彼女は抱き合うような格好になった。抱擁が交わされる寸前の瞬間を、少年の肘に触れる彼女の指がもてあそび、現在から見た未来や過去ではないいずれかの方向へと転がしていた。彼女は瞬間の力を受け流し、吸気と呼気のあいだのその短い隙に虚構を育み、それ以外の時は現実に順応して、例えばその時には少年に抱き寄せられるようにしながら、彼女は「彼女」である振りを続けていた。
 どちらかが呼吸すると、それはどちらの呼吸だったのだろうかと、どちらもが考えた。
 互い違いの方向を見た顔が擦れ違う瞬間で立ち止まり、その瞬間を慈しんでいた。向き合って座り、彼女と少年は偶然に頬や頬骨を時に擦りあわせては偶然に愛撫を交わしあっていた。あるいは偶然が彼女と少年を愛撫していた。どちらかにとってはそれは偶然ではないのだろうなと、どちらかが思っていた。だから結局はそれはどちらにとっても偶然の出来事ではなかったかもしれなかった。



 少年はまだ逆編集を続けていた。逆編集を続けながら、彼女と半ば抱擁しあうような姿勢と取っていた。その距離で嗅ぐ彼女の髪の毛やら衣服や体の匂い、少年の胸元に時折触れる彼女のオレンジ色のセーターの感触、そのセーターを通して伝わる彼女の筋肉と脂肪、支えられるためでもなく伝わる彼女の胴体の重さ、それらひとつひとつのものをさらにひとつのものにまとめあげている自分の身体感覚、少年はその身体を感じているのが自分ではないという振りをしていた。
 自分の身体から自分を除外する。自分が感じているはずの感覚だけがそこに存在するという状態、そのように語る虚偽を含めて、少年は状況から説明される自分を眺めていた。少年の掌の内側の彼女の腰の細さが、彼女の胴体ごと曲率を変えて、判然としない力点を少年の掌に発生させていた。力点は少年を居場所を突き止めようとしていた。だから、というわけではないかもしれないが、少年はその力点のありかを探ろうとしているのが自分ではない振りをしていた。それは状況のてのひらであり、少年のてのひらではない。
 それは逃避ではなく、習性だった。



 少年が消え去り、「彼女」の肉体を介して伝えられる刺激のみがそこに存在していた。少なくとも少年はそのような振りをしている。もしくはそのような振りをしている。そこまでは彼女の計算通りだった。彼女は少年の肘にかけた人差し指と中指を少年の骨格に沿って優しく、無感情に前後に滑らせていた。
 それから彼女は少年の肘にかけた指に軽く力を入れて、まだ遠慮がちに彼女の腰に触れていた少年の手を自分の背中へとうながした。
 彼女の背骨の数を中途半端な途中から数えるようにしばらく彼女の背中をさまよった少年の左手の掌は彼女の肩胛骨のあいだにあてれらた。どこからともなく現れた少年の右手がその左手と交差して、彼女の右の肩胛骨に触れた。

nobodyhurts - 20110409 - silence (physical)

「背」


Apr 8

腰。



 少年が手を動かそうとすると、「彼女」の手がそれを許さなかった。あなたがそれ以上崩れるのをあたしは許さないから、と「彼女」が無言で少年に告げた。それはどういう意味だと少年は無言で問うてから、それはどういう意味なのか考え始めた。その意味を知ってはいたかもしれないが、それが「彼女」の言葉と結びつくことはなかった。
 「彼女」は少年をそれ以上の崩壊から守ろうとしていた。手に手を重ねるだけで。それで少年は人の形を保ち続けた。彼女がそうしていた。少年が決して懐かしさに負けることがないように。「彼女」が彼女にそうすることを託したのだと、「彼女」の振りをし続けている彼女がそう認識した。それは彼女が想定している少年の妄想の度合いに応じたもので、必ずしも現実に即したものだとは限らなかった。
 彼女は少年が手を動かさぬように押さえていた。動きを押さえていたのか、手を押さえていたのか。それとももっと別のものを押さえていたのか。ただ手で手を押さえているだけのはずなのに、正確さを求めて拡散する、ただそれだけのことなのにと彼女は思う。



 少年はなぜ自分が手を動かそうとしたのか自問してみる。特に深い理由などなく、少ししんどくなったからというのが最も真相に近いところだろうが、「彼女」の首筋や、肩に触れようとしていたのだと言い訳もできる。それともそれはやはり「彼女」自身に関係あるのだろうか、と少年は考える。それはつまり、少年の視界のなかで手を動かそうとしていた誰かの思惑は何か、と翻訳される。
 それでは「彼女」が自分をそれ以上の崩壊から守ろうとするその意図は何か。それは「彼女」が「彼女」として救われる可能性の一つを保全しようとするだけの作業ではないか、と少年は考える。「彼女」の世界で可能性へと転じようとしている不可能性のひとつのかけら。少年はそれが結局は自分の世界観であることを自覚していた。実際には少年の世界観はもっと活き活きとしていた。暗くてほとんど何も見えないことを除けば、そこではすべてのことが起こっていた。
 少年はもう手を動かそうとはしてなかったのに、「彼女」はまだ掌に力を込めていた。透き通る、静かな強さだった。だから少年は「彼女」が「彼女」自身を救うための道具として自分を救おうとしているという考えをそれについて考える前に却下した。少年が「彼女」の頬に手を軽く押しつけると、「彼女」の手から力が抜けた。



 こんなことをするのは昼下がりに限る、と手の力を抜いた彼女は思う。夜だったらきっと真面目になり過ぎてしまう。この季節のこの時間帯が一番良い、と彼女は思う。
 それから彼女はふと手に力を入れ直すと、少年の右腕を自分の腰まで運んだ。
 少年の掌が「彼女」の腰のくびれを包んだ。背筋のカーブが、動かず、柔らかで、丈夫そうだった。少年は彼女にもう少し近寄らなければならなかった。あぐらをかいた膝と膝が触れては離れた。

nobodyhurts - 20110408 - silence (fictional)

「腰」


Apr 7

頬。



 このときには少年の主観的には少年と彼女との触れ合いは発生していなかった。少年はまだ現在を逆編集しているつもりになっていた。つまり、「彼女」に触れながら、そこにいる彼女に触れているのは誰か別の人間の掌だという振りを少年はまだ続けていた。少年は自分がそこにいないふりをまだ続けていた。
 彼女が映画のように起こっていて、誰かの掌が映画のなかの出来事のように彼女の頬に重なっていた。彼女も「彼女」も同じ風速を持つ血流を共有しながら、それぞれ別々の人間として駆動していた。「彼女」の頬の温かさの奥にも結果のない力が渦巻いていた。目の前の映画のなかで彼女に触れている誰かもその渦を感じていることを少年は知っていた。もしくはそんなことを知る少年を少年は知っていた。
 「彼女」の掌と指が、「彼女」の頬に触れている自分の手の甲に添えられていた。「彼女」の頬の仄かな温もりと、「彼女」の指の冷たさと、少年の上腕に当たる「彼女」の息と、「彼女」の眼差しが少年を形作っていた。少年がそれ以上崩れることがないと確かめるように、「彼女」は掌と指で少年を守っていた。



 彼女はずっと「彼女」の振りをしていた。それは誰か別の人間として少年に触れられるという絶望的な演技である一方で、「彼女」に対する想像力を彼女が働かすことのできる時間でもあった。自分がそうであると仮定されている誰か別の人に少年が触れている感触が自分の頬の上で起こっていて、自分がそうであると仮定されている誰かの思考だと仮定することのできるものが自分の頭のなかで起こっていた。それをそのように仮定しているのが自分ということになる。それはそのことを仮定することにより生まれてしまった自分であり、行き場がないそれはまだそこにいた。
 当然のごとく彼女は自分がそうであると仮定されている誰かの内側にいた。彼女がそうであると仮定されている誰かは、少年の手を取り、それを自分がそうであると仮定されている誰かと、彼女の頬に触れさせた。彼女が自分の思惑を分かっているなら、彼女がそうであると仮定されている誰かも同じ思惑を持っているのだろう。彼女がそうであると仮定されている誰かと、彼女がやっきになってその振りを続けている「彼女」とが一致する必要も根拠もそこにはない。ここになり、「君は間違えた映画のなかにいるよ」という表現を思いついたひとの考えを彼女は理解できたような気がした。そこでいう「君」というのは当然、わたしではなく、「彼女」であり、わたしがそうであると仮定もしくは断定されている人間らしきものなんだけど。この期に及んでわたしがどこかの物語の登場人物ということがなければ。彼女は注意深くそのように付け加えた。
 血液が風となり彼女の体中を巡っていたので彼女は内面ではその風に吹かれていた。あるいは血液が風であると感じられるのは「彼女」を通した処理であるかもしれなかった。つまり体のなかをずっと吹き続ける風があるという振りを彼女はしているわけで、それがそういうことなら振りではないその場合があるのかもしれないと彼女が考え得たのだった。

nobodyhurts - 20110407 - silence (intangible)

「頬」


Apr 6

風速を持った血流。



 彼女は掌に残る少年の頬の温もりを思い出していた。思い出していた、というからには失われていなければならないはずのそれが、まだそこに残っていた。あるいは少年の頬の温もりがそこに残っていたときのことを彼女は思い出しているのかも知れず、そうとなるとそのことを思い出している今はいつで、わたしはだれとどこにいて何をしているんだろう、などと考えて温まる自分の心を彼女は憎んだ。あるいは心のほうが憎まれることを許していた。心というのはそういうものだろうと彼女は考えついたが、今回もやはりそのことを少年には教えなかった。
 教えたいことはもっと他にあった。
 少年は自分の脇に置いたまだ湿ったクッションを気にしている振りを時折はさみながら、右膝を抱いて体をゆっくりと前後にゆすっていた。ずっとそうしてきたように、ずっと自分はそうしてきたとたったいま少年が決めつけたように、そしてずっとそうし続けることを検討し始めたかのように、その時間を何気なく過ごそうと努力しようとするかしないかの隙間で少年の感情が踊っていた。少年は感情と思考との区別をつけることを能動的に止めようとさえした。あるいは、自分の感情と思考だと思い、思考を感情だと思い込もうとして、結局はその意味を考えることに終始していた。少年にとっては心とはそのようなものだったが、少年が彼女にそれを伝えることはなかった。この部分においては少年と彼女の関係がねじれていると述べる必要は特になかった。



 彼女は右腕を伸ばし、少年の左腕に触れた。マグカップは彼女の右隣、少年の左隣に並べられていたし、少年の左手は右のくるぶしに添えられた自分の右手を押さえていたので、彼女は右腕を少し前に出すだけでよかった。そして、伸ばすというよりは、差し伸べる感じ。差し伸べた先に、偶然が待っている感じ。あるいは偶然のその幻が。そう考えた彼女は弱気になっている自分を意識するが、偶然か、それとも偶然のその幻なのは自分も同じことなのだと考えて落ち着きを取り戻した。
 彼女の右手が少年の左手をはがして、それを彼女の頬まで運んだ。少年の掌は思ったよりもごつごつしていた。風速をもった血流が彼女の肌を内側から撫でていた。少年の体温はまだその渦との調停を行う役目を与えられていなかった。少年の掌が彼女の頬に触れた瞬間、部屋の空気が変質したのだと彼女は思ったが、折良く吹き込んだ風がその妄想を中和した。彼女は終わることのない儀式の自分が中断できたはずもないその続きを始めることにした。
 彼女の掌が少年の左腕を支えていたが、彼女が目を合わせながらその掌を軽く持ち上げる仕草をすると、少年は能動的に彼女の頬に触れることを始めた。それでも彼女の手は少年の手に添えられたままだった。

nobodyhurts - 20110406 - silence (tangible)

「風速を持った血流」


Apr 5

どこかでは一瞬が始まっていた。



 部屋を満たす静寂がほとんど目に見えそうだった。誰かがそこに座っているのを誰かが眺めていた。少年のなかの誰かが、彼女のなかの誰かを眺める、というのならそれは美しい構図だろうな、と少年は思った。
 それとも、誰かのなかの、希望らしい希望を持たないがゆえに諦めるということを知らない少年が、誰かのなかの、絶望をすでに比喩として取り扱っているがために諦めるということを知らない彼女と出会うのなら、それは素敵な構図だろうなと、少年は思った。
 おそらく自分たちの出会いにはそのような側面もあるのだろうなと少年は思う。自分がこのように感じているこの側面があるのと同じように。どのような物語にも翻訳されうる記憶の原形質のようなものが、いまはただの静けさとして部屋を満たしていて、ただの部屋がその静けさを満たしていて、それと同じ静けさが少年を満たしていて、少年は同じ静けさを満たしていた。縮尺を替えながら、単位を替えながら、言語を替えながら、経験の単位時間を替えながら、変わるということの意味が変わるなかで、ずっと変わらないように見える幾晩もの夜が過ぎたことを少年は知っていた。あるいはそれは単に自分が変わってないというだけのことか、それとも変わっていく自分を見ている自分は変わらないのだなと少年は結論を下し、結論が続き、結論は変わり、結論が変わっても、結論の意味は、本当のところはそれが分からないという一点を論拠に、それは不変だと言うこともできた。



 少年が始まり、彼女が始まり、わたしが始まり、あなたが始まっていた。いつも、懐かしい時間が始まり、思い出が始まり、忘却が始まり、回想が始まっていた。
 都会が始まり、どこかでは夜が始まり、また別のどこかでは一日が始まり、どこかで一生が始まっていた。どこかでは一瞬が始まっていた。入射角が始まり、反射角が始まり、速度が始まり、経過時間が始まっていた。
 喉の渇きが始まり、閉じたまぶたの奥の深さが始まり、涙は眼球の裏から滴り始めていた。傘のように開いた舌が眼球の裏から雨だれのように落ちる涙に打たれたら、言葉に似た何かが跳ね返り始めるかもしれなかった。



 比喩でしか語られ得ぬ何かが、それを語ることのできる言語を探していた。相互に浸透する物事の意味が、今のところ新たな視界を組織化し、今のところ今のところと呼ばれるものが、一日という単位で測られるひとまとまりの時間を終わりを飾っていた。
 彼女という比喩、そして彼女の比喩で語られる彼女が少年の前に座っていたし、もちろん、少年も何かの比喩として、もしくは少年の比喩で語られるものとして、それまでの人生で覚えた余裕の表情の下手な模倣の要らぬヴァリエーションを重ねながら、彼女に向かい合っていた。それが何かの比喩であるというのは、もちろんそれも比喩であり、もちろんそれも比喩であり、それが意味のほうでもあるかも知れず、それはだいたいのものと同じように、意味でしか存在することのできない何かかもしれなかった。
 もうなくなってしまったものと、まだないものの関係が、現在を決定していた。あるいは現在はずっと未定なのに、次の瞬間だけはいつも見えていて、焦点は手前へ向けて遠ざかり続けていた。

nobodyhurts - 20110405 - silence (visible)

「どこかでは一瞬が始まっていた」


Apr 4

茶菓子。



 時に窓から涼しい風が吹き込む以外は、室内の温度は安定しており、少年は自分が感じているものが室温なのか体温なのか分からなかった。
 心地の良い日だった。何にも理由や原因はないようで、だからどれが結果かとか、判然としなかった。因果の網をたぐって、そこに捕らえられた一匹の蜘蛛が見つかり、その蜘蛛は因果からは自由で、それ自身を律している何らかの規則からは自由ではなかった。理由や動機を離れようとして、そして、感慨や考察を離れようとして、自己を回避したと思ったところで、回避されたほうの自分が、通り過ぎようとしているほうの自分の何気なく足を引っかけようとしている、その足を少年は蹴り返した。
 その時に無意識的に動いた足が、カモミールティーの残ったマグカップを倒したのだった。



 こんなに気持ちの良い日は、どこかに出かけるべきではないかと彼女は思う。
 四分咲きの桜並木のした小一時間歩いて、公園まで少年を案内することを彼女は検討した。その曜日の、昼下がりのその時間だったら、彼女の気に入っているドーナッツ屋にまだ品物が残っているはずだった。ひょっとしたら何かを察した少年が彼女にドーナッツをひとつくらいおごってくれるかもしれなかった。さっきからお茶ばかり飲んでいるから、口が寂しいというのもある。
 だが、たぶん、人の判断や反応と言ったものを先取りし、先回りしながらとかく捉えどころのなくしていく少年の親切さは、きっとそのような形では駆動しないのだろう、と彼女は分かっていた。彼女は「自分が間違えていたらいいな」と思ったが、文字通りそう思ったのではなく、彼女の抱いている小さな期待を翻訳したらそのような文言になるというだけのはなしだった。実際に彼女が抱いていたイメージはもっと別のものだった。



 少し腹が減ったな、と少年は思った。どこかで何かおやつでも買ってくるべきだったが、自分が彼女の部屋を訪れる前に何をしていたのか、記憶は曖昧で、その曖昧さのなかから煎餅の何枚かでも融通してもらえないものかと少年は考えた。
 少年と彼女は黙り込んで、それぞれの体から発せられている静けさを味わっていた。相手の静けさを味わうことが、自身の静けさを表現することにつながった。もちろん、それが少年か彼女の考え過ぎの成果でなければ。
 彼女に言えばバームクーヘンのひとかけらでも出てくるかも知れない、それとも、いつから棚の奥で眠っていたのか分からない案外しっかりした外装のクラッカーだとか、何か乾燥したもの、簡単なお茶菓子の一種類か二種類くらいはあっても不思議ではないと少年はぼんやりと考えた。これまで少年が飲んだことのない味の茶が出されたくらいだから。でももしそうならば、自分は彼女がまだ食べたことのない茶菓子のひとつでも献上すべきではないだろうか。チーズケーキを、月の欠片だと銘打って、おもむろに渡すとか。少年は念のために自分の持ち物を調べてみたが、財布と携帯型音楽プレイヤーとイヤホン以外は何も持っていないことが再度確認されただけだった。

nobodyhurts - 20110404 - silence (audible)

「茶菓子」


Apr 3

閉じたまぶたを振るわす静けさ。



 音楽が止んでいた。少年は床にこぼしてしまった茶を拭き取るものを探そうと奮闘していたが、動きのひとつひとつがとにかく要領を得ず、致命的に不器用というわけではないが、的外れで、的を外す才能には充ち満ちているようだった。
 彼女が布巾を持って居間に入った時、少年は自分がすわっていたクッションをつま先で動かして、それで床の濡れた部分をどうにかしようとしていた。彼女はきつい視線を少年に投げると、クッションを取り上げた。液体はカーペットとクッションにあらかたしみこんでしまったあとだった。
 彼女は布四つに折りたたんだ布巾をぎゅっと押しつけるようにして、少年がこぼしたお茶の後片付けをした。音楽が止んだのは、少年の携帯型音楽プレーヤーが水没するなりして故障したのが原因だと彼女は思っていたが、少年が新たに曲を選び始めるのを見て、単にひとつのプレイリストの再生が終わっただけだと気付いた。



 音楽が止んでいた。それで静かだった。静か、というよりは、静けさが感じられた。喧しさも感じられたが、それは遠かった。
 静けさというものが、空気の振動として伝わっているかのようだった。少年には、静けさというものが、まるで自分の体の一部の状態のように感じられた。鼓膜のかわりに、閉じたまぶたを震わせる静けさ。
 静かな春だった。彼女の体が静かだった。所在なさげに立っている少年の前で、手際よく布巾で茶を拭き取っている彼女の体は、何も言っていなかった。目を閉じると、彼女の体が発する様々な静けさが少年には感じられるような気がした。



 音楽が止んでいた。彼女は台所でマグカップをゆすぐと、水気を払い、湯を注いだポットと共にふたたび居間に戻った。少年はまだ少し湿っているクッションを脇において、床に直接座っていた。
 彼女は何杯目かのカモミールティーを淹れた。ポットの取っ手の感触と重みを指と手首で支えながら、さっき少年の頬に手を伸ばしたときに触れた無精髭の感触を彼女は思い出していた。特に油分の多そうな肌ではなかったが、何故だか少し不潔なものに触れたような気がしていた。
 指先に触れた、まだらの、曖昧な固さを持った髭と、少年の肌から伝わった素直な体温を彼女は覚えていた。



 音楽が止んでいた。少年は新しいプレイリストを選ぼうとしていたが、しばらくは生の静寂に浸るのもいい考えかも知れない、と思った。
 生の静寂、生の騒音、生の思い出。
 携帯型音楽プレイヤーとアンプを繋ぐケーブルを外した方がいいだろうか、と少年は考えた。そうしたら、彼女に自分がしばらくは曲を選ぶ意志を伝えられるし、ひょっとしたら彼女のほうで何かかけたい曲があるかもしれない。彼女が選んだ静寂。もしくは彼女が選んだ曲間の無音状態の余韻に浸って、日常言語の間投詞のようなものとして、純粋な静けさというものを取り戻す契機になるかも知れない。もちろんそんな考えはいい加減なものだったし、そんなことを考えているあいだに、携帯型音楽プレイヤーからケーブルを抜くのを少年はすっかり忘れてしまった。

nobodyhurts - 20110403 - silence (another another)

「閉じたまぶたを振るわす静けさ」


Apr 2

すこしの音。



 すこしの音がしたような気がした。でも彼女の部屋は音に様々な音に満たされていた。そもそも少年がずっと自分で選んだ音楽をかけていた。それ自体は悪くない。音楽の趣味も悪くないと彼女は思う。
 ただ、自分で喋るかわりに、ずっと曲を流しているように見える。そして自分で選んだ曲に彼女とともに耳を傾けることにより、彼女の言葉や、彼女の内側の沈黙に少年は耳を澄ましているかのようにも見えた。
 その自分勝手な構図には少しの胸躍るような要素も見つからなさそうでもなかったが、彼女が好きだったのは、曲間と曲間の、ほんの短い、数秒間の無音時間に、少年の呼吸音に耳を澄ますことだった。唐突に曲が終わって、スピーカーの方に目をやるときの少年の、すこし荒くなった鼻息が、彼女は可愛いと思った。



 すこしの音がしたような気がした。ついに彼女の心が聞こえたのではないかと少年は心を躍らせたが、もちろん誤解だった。心が聞こえるとしたら、それはどのような音を立てるのだろうか、と少年は思いを巡らせた。
 誰かが、誰かの、例えば、少年が彼女の心の音が聞こえたときに鳴っている他の全ての音が、実は、彼女の心が鳴る音で、ひとつの心がそれ自体のために音を奏でるということはないのだろう、と少年は思うことにした。でもそうなると、自分が立てている音も彼女の心が鳴らしている、もしくは鳴らしていない、音に含まれるのだろうが、そしてそれはそれとして納得できなくもないが、もしそうならば自分がいない場面で、彼女が心が鳴らす音を聞きたいと少年は思った。
 だが、少年の頭を流れるこの一連の内的独白も彼女の心の一部として聞いている自分が思い浮かんで、少年は即座に思考を停止した。



 すこしの音がしたような気がした。薬缶を火にかけたままだった事に彼女は気付いた。
 慌てて台所までいくと、薬缶のなかで湯が沸騰していて、蓋が震え、注ぎ口からは湯気が沸き立っていた。彼女は火を止め、注意して蓋を持ち上げると、一斉に湯気が立ち上り、普段自分が習慣的にいれる水量の半分程度しか薬缶に残っていないのが分かった。彼女はもう一度水を注ぎ足すと、火を点け直した。
 と、すこしの音がしたような気がした。にわかに音楽が鳴り止んだ居間で、少年が茶の入ったマグカップを倒して、中身をこぼし、どうにか収拾をつけようと無駄にあわてて、そこらを歩き回り、何か拭くものはないかと部屋を物色していた。彼女は溜息をついて、布巾を持って居間へと戻った。

nobodyhurts - 20110402 - silence (another day)

「すこしの音」


Apr 1

静寂と沈黙との会話。



 しばらく静寂がおりた。それが静寂だと気付くのに時間がかかったことにしたかったが、何だかそれは静寂というものを知らない人間が言いそうな文句だなと少年は思った。
 それは二三秒の静寂であったはずだ。それは曲間に挟まった無音の時間でしかなかったから。少年がいかに物事を拡大解釈しているかが見て取れる。
 静寂と、彼女と少年の沈黙がたまに寄り添うことがあり、その時には、場の静寂と二人の沈黙が会話しているように少年には思えた。二人が会話している、というわけではなく。



 静寂が続いた。静寂が、また続きを始めた。時間の長さというものが意味を持たなくなるほど長いあいだ続いている静寂のほうではなく、少年と彼女が共有しようと企んでいる静寂の方で、その静寂は少年と彼女のあいだの沈黙と流暢に会話をするともいう。
 あるいはその会話の内容が少年と彼女として表現されている。そのように表現されている。
 でも先にも言った通り、少年がここで静寂として取り扱っているのは、自分のプレイリストを降下していく再生曲と再生曲のあいだに挟まる二三秒の無音状態だ。



 静寂がまたおりた。静寂が落ちた。静寂は自らを語るすべを見つけようとしていた。その方法を見つけたからと言って、静寂による静寂についての語り、が実施されるかどうかはまた別のはなしだ。
 そんなことになったら、今みたいに、自分は静寂の代弁をしなきゃいけなくなる。彼女はそう考える。自分が静寂によって語られている内容だと思うと、幾つかの歯車が合う。だけど、そのことを少年には伝えなかった。比喩の妥当性を検討する必要はあるし、それに、少年はすでにそのことを知っているか、これから自分でそのことに気付くかのどちらかだ。
 そうでなければ、彼女はひとつの賭けにおいて時間をさかのぼって負けることになる。だが、彼女たるものがそのような賭けに負けたりすることがあり得るだろうか。



 静寂のなかで少年はその問いから自分を逆算して人の形を保った。ある程度は気味悪がられるのは分かっていたので、いちいちその解説を少年が彼女に対して行うことはなかった。
 彼女が賭けに負けるわけがあるだろうか。彼女に対する少年の妄信を差し引かないのならば、その問いに対する答えは、否、となる。少年は賭けの対象でしかなく、少年は彼女がその賭けに負けるとは思えない。
 だから、まだそんなに捨てたもんでもないと思うんだけど、と伝えようとして、そのことを伝える必要があるのならば、そのことはすでに共有されていなければいけないことに思い至る。



 静寂は、気まずさを誘うものではなかった。静寂それじたいが気まずそうにしていることはあったが、それは少年か彼女の目を通してのことだった。
 曲間の静寂を少年を膨らまして、彼女もそれを共有しているのだと少年は考えた。そのことを彼女が察してくれたらいいなと少年は願っていたが、それ以上甘ったれるというのも気に入らなかった。彼女がどう思っているのかは分からなかった。
 また、たとえ、彼女がそのことを察してくれていると言っても、実際にその静寂が共有されているのかどうかは別の話なのだと少年は気付いた。

nobodyhurts - 20110401 - silence (another april)

「静寂と沈黙との会話」


Mar 31

茶の味。



 彼女は少年に見られることによって生じる「彼女」を化粧のようにまといながら、春の始まりを迎え入れていた。少年が新たに曲を選んでいるあいだに、今度は、彼女は湯で満たした茶のポットを運んできた。いつもはカフェイン漬けの少年は、カモミールティーの涼しい味を楽しむことを覚え始めていた。たぶん、この時間のことを忘れてしまったとしても、この茶の味はずっと覚えているんだろうなと少年は思った。



 思うだけではなく、少年は彼女にそう伝えもした。
 彼女は何らかの意味で自分が侮辱されたと感じるだろうか。
 即席の不安が沸き上がり、それは、過去から未来まで時間線に沿って、感情の線維に滲んで、一本の線のそのあとかたの予兆のようなものを残した。



 あなたはわたしのことを忘れてしまってもこのお茶の味は忘れないって言ってるの?
 と彼女は問う。少年はこう返す。
 ただこのお茶の味は覚えたってことだよ、知識として。



 何もかもが変わったとしても、このお茶の味は変わらない。お茶の味っていうのは、自分のなかだとそういう領域に属しているのだけど。
 と少年は不格好に付け加える。彼女はマグカップに目線を落としながらこう言う。
 何もかもが変わったとしても、わたしとあなたとこのお茶の味は変わらないということにしましょうよ。



 わたしのなかのあなたや、あなたのなかのわたしは変わらないということにしておきましょうよ。例え他の何もかもが変わってしまったあとでも。
 彼女は彼女らしくもなく感傷的な言葉をもらした。自分で自分らしくないな、と彼女は思っていた。「彼女」らしくないなと思いながら、少年はこう付け加えた。
 ただこのお茶の味を覚えたという話しが、何でそこまで広がるんだろう。



 君が何かの意味で合わせてくれているとか…。まだ始まってもいない話しに話しを合わせてくれているみたいだ。
 自分で言っていることの意味すらよく掴めないまま、少年は打ち明けた。彼女は真実から身を逸らしつつ、こう応えた。
 変な恩に着るのは止めて。



 変な恩に着るのは止めて。勝手に変な恩に着て、その内容をわたしに後付けで実現させるみたいな真似は止めて。
 真実から身を逸らしつつ、また別の真実にもたれかかりながら彼女は言い放った。少年は沈黙のなかに沈もうかと思ったが、辛うじてこう言葉にすることに成功した。
 君はいまたぶん、もう終わってしまったものに話しを合わせてくれているんだ。



 君はいまたぶん、もう終わってしまったものに話しを合わせてくれているんだ。だから今だって、今後だって、この話しでふたりのどちらかが気を止む必要なんてないんだ。
 そこにない話しの脈絡をどうにか辿りながら、少年は懸命に意味を組み上げようとした。彼女は意味を汲んで、こうつぶやいた。
 問題はあなたがまだ始まってもいないことを、終わってしまっていると見なしていることだと思う。



 だって、言ってみれば、ずっと遠くにある恒星、地球に光りが届くまで何十万年もかかるような距離にあるその恒星からの光りはまだ見えないまま、その星の物理的な構成を常に把握していると思い込んでいるみたいな気持ち悪い状態じゃない。
 彼女はこの時点で心底うんざりしていた。何で自分がこんな喋り方をしなければならないのか分からなかった。それほどはうんざりはしていない少年が彼女の話の続きを引き受けた。
 この星の話しを、まだこの星の光りが何らかの意味で届いていない場所でしているだけかもしれないじゃないか。

nobodyhurts - 20110331 - silence (-like wonder)

「茶の味」


Mar 30

「あなたにとってはこれも思い出なんでしょ」



 こんどは彼女は少年の頬に手の平を重ねた。
 小さく冷たい手の平が気持ちよかった。少年は少し顔を動かして、彼女に応えようとするが、目線で会話するにとどめた。彼女は目線を逸らした。それから腕を下ろした。少年の息を手首のあたりに感じていたことを思い出すか、気付くかした。



 単にそのように遊んでいるのだろうと少年は納得することにした。
 もしくはそのようにして思考しているのかも知れない。
 少年は無限の空間のなかで話をそのように広げてみた。



 そのようにして彼女はここまでのはなしを思考したのだろうか。
 と少年は考えた。
 もしくは自分が彼女の動作を通してそのように思考しているのだろうか。とも。



 記憶が思考した結果生じているのが自分なのでは、と少年は考えた。
 もしくは記憶で思考したものを生きているのではないか。
 記憶以外のものを見てみたいと望むだけ望みながら。



 少年は彼女の手首から何の匂いもしなかったことを思い出していた。
 匂いのかわりに肌触りを備えているかのようだった。
 もしくは彼女の歩んできた荒々しい歴史の匂いが殆ど漂っていそうでもあった。



 あなたにとってはこれも思い出なんでしょ。
 と少年の記憶のなかで彼女が言っている。
 彼女はこれが今だと思っている。



 彼女はもう一度、今度は逆の腕を伸ばし、少年の頬に触れた。もう片方の掌よりもわずかに温かいように感じた。今度は少年は目を合わせるまえに目を逸らすということをやってみたが、彼女はそれを見ていなかった。
 彼女は少年のかたわらの携帯型音楽プレイヤーの液晶をのぞき込んで曲名を確認しようとしたが、いかんせん遠すぎたし、角度も悪かった。



 彼女は少年に曲名をたずねた。
 少年は彼女に曲名を教えた。
 彼女はもう腕を下ろしていた。



 彼女の掌には、少年の無精髭の感触が残っていた。
 それなので肌に触れたというよりはまったく無精髭に触れていたかのようだった。
 あるいは無精髭が肌なのかも知れない。もし何かコメントを求められたら少年はそう言うだろう。



 食前酒を食前酒って理由だけでずっと食前に飲み続けているみたいだ。
 食事に辿りつくことができない。そもそも食事に辿りつくことが目的なのかも分からない。
 そのような時間の過ごし方をするのは嫌だなと彼女は思っていた。



 そのような時間の流れ方でも別に構わないと少年は思っていた。
 経験に酔っているのか主観に酔っているのか分からない。
 少年はそう感じることもあった。



 彼女と少年はかすかな違和感を共有していた。
 通奏低音のようなもどかしさ。
 それは主に少年の手落ちだと彼女は理解していて、たとえそれが真実ではなくとも、少年が彼女に反論することはなかった。



 また、そのようなことがあったとしてもなかったとしても、彼女と少年は気にかけなかっただろう。
 共有されている部分については言葉にすることはないという暗黙の了解を、少年と彼女はすでに共有していた。
 少年と彼女は、そのことに関する無言の審議を行っていた。

nobodyhurts - 20110330 - silence (of two)

『「あなたにとってはこれも思い出なんでしょ」』


Mar 29

一致の階段はいつも一段飛ばしで、彼女の体がそれを覚えている。



 彼女はふと手を伸ばし、少年の顎に指先で触れる。
 何の仄めかしもない、単に指先で少年の顎に触れるための動作。マグカップ二つ分の距離は腕がすぐに飛び越えた。背中はほとんどそれを余分に支えず、ただ肩だけがわずかに前に出た。彼女の指が圧すだけの力で少年はわずかに首を持ち上げた。彼女の指にかかった力は関係ない。彼女の指が動いただけの高さを少年の顎が持ち上がった。
 いまを懐かしがっているこの男に何ができるか。
 いまを懐かしがっているこの男にわたしが何をできるか。
 彼女は彼女の言い分のなかで、少年は少年の沈黙のなかで、それぞれが過ごす初春の光景のなかで、互いが光景の要求によりそこに配置されているという疑念を振り払えないまま、見えないやりとりを、見えるかたちでおこなった。
 すなわち、懐かしいという感情を知らない彼女が、懐かしいという感情しか持たない少年に出会い、何が懐かしいのかを決めてみようと試みて、彼女は「彼女」を経由した強迫観念を通じて、少年は生来の感傷癖に由来した逆編集という妄想に取り憑かれて、「彼女」と少年は、そして彼女と少年の妄想は盛大に正面衝突をした後、実際に流れている時間のなかで決して実際には流れることのない時間を二人は過ごしていた時に、彼女は、「彼女」として、「彼女」は彼女として、少年に言葉を投げかけた。



 それはたぶん光りそのものではなくても光りの意味ではあったのだし、そうあるのだ、と彼女は思う。
 この男があたしを透かして「彼女」に仮託しようとしていたし、いるのは、きっとそのようなものだと彼女は思う。
 それは特に彼女が自信過剰というわけではなく、彼女なりの鑑識眼で少年を識別した結果だった。
 自分の人生が、人生そのものではなくとも人生の意味ではあるということを彼女はよしとせず、彼女は自分の本能に近い部分での判断のその意味を探そうとしていたが、それは問題を二重化するだけであるとすぐに気がついた。それに、そんな話しになったら意味と意味を持たないものを識別することなんてとてもじゃないができそうにない。
 一致の階段はいつも一段飛ばしで、彼女の体がそれを覚えている。



 一段飛ばしというわけでもなく少年の顎にかけた指を、彼女は下ろす。
 いつの間にか音楽が鳴り止んでいることに少年は気付く。次のプレイリストを確認しようと少年はかたわらに置いた携帯型音楽プレイヤーを右手で操作している。左手は彼女に触れるわけでもなく、そもそも少年が座っている場所からはそのままの姿勢では届くはずもなく、少年はクッションの上であぐらをかいている自分の膝近くにかぶせた手の平を、軽く開いたり閉じたりしていた。それはその行動自体の鼓動であるように見えた。涼気の層が床に被さっていたがそこに浸された少年の手は軽く汗ばんでいた。
 彼女はいつものようにひとつの鼓動のようでしかなかった。そのことを確認しながら、たとえばマイナスの鼓動というものがあるとしたらそれは自分の鼓動のことだろうなと少年は思った。

nobodyhurts - 20110329 - silence (all day long)

「一致の階段はいつも一段飛ばしで、彼女の体がそれを覚えている」


Mar 28

眠りのように過ぎる夢。



 少年は口を開けないまま思う。彼女の夢はまるで眠りのように過ぎていくのだろう。彼女は眠りながら眠るのだろう。それとも眠りながら眠るのだろう。たぶん目はつむって。たまに口をあけて。



 少年は思う。まだ過ぎてない一日、それもまだ訪れてもいない一年のある初春の、まだ覚えられても忘れられてもいない午後を過ごしている彼女の部分、予測による注釈や編集の野暮の及ぶ先で、この物語を遠くから眺めて、それを覚えることも忘れることもやはりしないまま、それはあるいは天気予報が八卦を眺めるような感じで、彼女の視点からみれば、幻のなかで流れっぱなしの映画みたいな物語が過ぎようとしている。初春の午後が、幻のようなのか、それともそれが映画のようなものなのか、そのようなことを彼女は当然考えていない。と、思う。



 少年は思う。幻覚を幻覚でないものから見分けることが出来るのだったら、それは幻覚とは呼びようがない。けれども片目で幻覚を見たまま、もう片方の目で現実を見て、両目で何か別のものが見えたりしないだろうか。よりひどい幻覚だとか。自律的な幻と衝突しないように生活を続け、いざぶつかった時には、自分の方が幻だったんだって思うくらいに、呆然として、白けて、落胆を感じる前に前にそのことに対して意外さを感じるほど傲慢であったことにもついでに気付いて、その謙虚さだけを言い訳の種にして自律的な幻とよりを戻し、何も学ばないまま時が過ぎたし、過ぎるだろう。予測は外れることもある。事実として。要はそのようにまだ過ぎてもない時間と、実際に過ぎた時間との兼ね合いで何かが起こっていて、いや実際には何も起こってはいないのだけど、過ぎることのない時間ともう過ぎてしまった時間が似ていると感じているこの時間が過ぎたあとで、これは流れることのないどの時間と照らし合わされるのだろうか。



 少年は思う。自分は彼女に対して何を話すでもなく、ただ推論とちょっとした狂気と隠喩により導き出された沈黙のなかで、ただこのように思考することだけを願っていたのかもしれない。もちろん、それはあるまじき行為だ。でもなにかをあるべきではないと言うのは、単にそこで検分されるべき尺度をもうひとつ付け加えるだけのことなので、真に少年がそのようにただ思考することを願っていたのだとして、それは単にそれだけが他の為すべきではないことの代わりに行われただけだとも言える。まあ別にそこまで捨てたもんでもないと思うが、と少年は言葉にしようとして、彼女に対してそこまでの前提を何一つ打ち明けていないことに気付く。そして、それは、もう一つのこんな希望に結びつく。かもしれない。そこまで捨てたもんでもないと思うが、といういかにも微妙な台詞を何の前提もなしにいきなりぶつけられた彼女が、実は、全部の辻褄の各種を理解しているかのように平然とうなずくのではないかという、希望と呼んではいけないそれは希望で、叶ってはいけない希望、それでもなお希望としてあり続けるもの。だから彼女がもしそのときにうなずくのならば、自分もまたうなずくことしかできない。それは、この場合においては、彼女が抱きうる希望と呼んではならない類の希望のなかでは最良のものだから。

nobodyhurts - 20110328 - silence (all night long)

「眠りのように過ぎる夢」


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